映画「仁義なき戦い」の広島弁講座です 昔の広島弁
この映画を見られた方は、何を言ってるのか
わからないセリフもあるのかと思いました
管理人は広島出身ですので少し解説します
シリーズ五作に出てくる台詞で登場頻度が
多いと思われる広島弁です・・
「こんなぁ・・・」
お前・あなた・君
「おどりゃ~・おどれ!」
お前・あなた・君
「わりゃ~・・・」
お前・あなた・君
「~つかあさいや」
何々よろしくお願いいたします
何々してください
「~ど!~どお?」
何々です 何々ですよね?
「~で!~でぇ?」
何々です 何々ですよね?
「なんなら? ~なら?」
なんですか?
どうしたんですか?
どうしますか?
「~じゃけえ ~ですけえ」
なになにです
なになにですから
「~つかいや」
そうだから!
何なにですから・・
まあ、こんなもんじゃろかい?
仁義なき戦い 不朽の名作と称えられる衝撃の第1作【1973年1月13日公開】
終戦直後の呉。復員後遊び人の群れに身を投じていた広能昌三は
その度胸と気っぷの良さが山守組々長・山守義雄の目にとまり
山守組の身内となった当時の呉には土居組、上田組など四つの主要な組があったが
山守組はまだ微々たる勢力にしかすぎなかった。
そこで山守は上田組と手を結ぶことに成功し当面の敵、土居組との抗争に全力を注ぐ
その土居組では組長の土居清と若頭・若杉が仲が悪く事あるごとに対立しとうとう若杉は
破門されてしまった。
そして、若杉は以前からの知り合いである広能を通じて山守組へと接近していった
若杉の山守組加入で、土居殺害の計画は一気に運ばれた
広能は土居殺害を名乗り出た若杉を押し止どめ、自ら土居を襲撃し、暗殺に成功
ところがそれ以来、山守の広能に対する態度が一変し、組の邪魔者扱いにするようになり
広能は結局自主して出るのだった。その態度に怒った若杉が、山守の若い衆を殺害
したことから警察に追われ、激しい銃撃戦の後、殺された。 その間にも、土居組の崩壊と
反比例して、山守組は増々勢力を伸ばしていった
しかし、その組の中でも、主流派の坂井鉄也と、反主流派の有田俊雄という
二つの派閥が生まれ、山守を無視しての内戦が始まっていた
まず、市会議員・金丸と、土居組の残党を味方に引き入れ勢いづいた有田は
坂井の舎弟山方、兄弟分上田を殺害した。激怒した坂井は有田を破門するとともに
報復に出た。次々と射殺される有田一派、ついに血で血を流す凄惨な抗争車件に
発展してしまった。そして、警察の出動により有田は逮捕、兄貴分の新開は殺された
勝ち残った坂井は、広島の海渡組と手を組み、山守に替って呉を支配するかのように
振るまうようになった。
やがて今ままでの内戦を黙視していた山守の巻き返しが始まった
山守は、丁度その時仮釈放で出所した広能に坂井暗殺を捉した。
冷酷な山守の魂胆を見抜いている広能は、微妙な立場に立たされた
山守に従う気はないが、そうかと言って坂井に手を貸す気もなかった
そんな時、矢野組々長・矢野修司が坂井と海渡組の手を切るぺく画策中に殺された
山守の恐るぺき執念がついに実行される。
殺気立っていた矢野組々員をけしかけ坂井を襲撃させたのである。
坂井は血だるまになるまで銃弾を受けた翌日、坂井の葬儀が盛大に行われた。
広能はかつて憧れたやくざ社会に虚しさと怒りを抱きながら
無傷の喪主山守の 前を去っていった
仁義なき戦い 頂上作戦 広島ヤクザ抗争の終焉を描く第4作【1974年1月15日公開】
昭和38年春/西日本広域暴力団明石組と、ライバル神和会との代理戦争とも言うべき
広島抗争は、激化する一方だった。明石組系の打本組(広島)と広能組(呉)
神和会系の山守組(広島)の双方は、はっきりと対立の様相を呈していた。
同年5月相次ぐ暴力事件への市民の批判と相まって、警察は暴力団撲滅運動に乗り出し
“頂上作戦”を敷いた。その頃、呉市では広能組が、山守組傘下の槙原組と対立していた。
広能と打本は、広島の義西会・岡島友次に応援を依頼し、ひたすら中立を守る岡島を
明石組の岩井も説得する。やがて、広能組の若衆河西が、槙原組の的場に射殺されたことから
広能と山守の対立は正に一触即発となった。一方、広島では、打本組々員三上が
誤って打本の堅気の客を殺害したことから、一般市民、マスコミの反撥が燃えあがり
警察も暴力取締り強化に本腰を入れはじめた。その頃、山守組系の早川組若衆仲本が
女をめぐって打本組の福田を襲撃、惨殺した。同年6月19日/山守組傘下の江田組々員が
打本組の若衆に凄絶なリンチを加え、一人を死に至らしめた。
だが、打本は、その弱腰から報復に打って出なかった。広能は、岩井の発案で
殺された組員河西の葬式を行なうという名目で、全国各地から応援千六百人を集め
一気に山守組に攻め込もうとした。同年7月4日/打本が、山守系の武田組に位致さ
、山守に脅迫されたために、広能の計画を吐いてしまった。山守は早速、警察に密告する。
同年7月5日/広能は別件容疑で逮捕され、明石組とその応援組員は呉から退去
ここに形勢は逆転し山守、福原が呉を支配するようになった。
以後も、広熊組と槙原組との間に、血の応酬が相次いだ。
同年8月下旬/岡島友次は、愚連隊川田組々長を金で買収し、山守勢と対決すべく決心をした。同年9月8日/岡島の動向をキャッチした山守は、組員吉井に、岡島を射殺させた。
同年9月12日/打本組の谷口等が山守組のアジトに、義西会の藤田等が江田組事務所に
それぞれ爆弾を投げ込んだ。
同年9月21日/命を狙われ憔悴した山守は、早川組のバーに身を隠していたが
そこにも打本組々員が殴り込み、山守はからくも逃亡した。いきり立つ打本組若衆たちは
山守・江田両組の組員たちと凄絶な市街戦を行ない、市民を恐怖のどん底に陥入れた。
暴力団追放の世論が沸騰し、警察と検察当局は、ついに幹部組長一斉検挙に踏み切った。
やがて、山守は逮捕された。一方、岩井は、広島に乗り込んで義西会を中心に陣営の
再建に着手し始めるが、武田は、暴力団を糾合して、岩井の挑戦を真向から受けて立った
同年9月24日/明石組事務所を、武田組組員が爆破。明石組は、これを神和会の仕業と誤解して即座に報復したために、武田組と岩井組の間で、激烈な銃撃戦の火ブタが切って落された
かくして、広島抗争事件は、西日本をゆるがす大流血事件と発展してしまった
死者17名、負傷者20余人を出した実りなき抗争
広能は、ひとり獄舎で深い虚しさを噛みしめていた
仁義なき戦い 完結篇 終焉から世代交代がもたらす新たな抗争を描く第5作【1974年6月29日公開】
警察の“頂上作戦”で幹部連中が大量に検挙された後、大友組が勢力を回復
広島やくざ組織は、山守組、打本会、大友組の三巴の対立となっていた。
だが、彼らは警察の目を欺くために山守義雄を会長に、傘下の武田組、江田組
早川組(元打本会)、大友紙、呉の槙原組、さらに徳山、福山など近郊都市の組織までも
大同団結させて、政治結社「天政会」を発足させた。
昭和41年春。天政会々長の二代目を継いだ武田明は、警察の取締りに対処し
会の再建強化を図るが、反主流派の大友、早川らの反発にあう
41年4月3日。天政会にすっかり抑えられていた呉の市岡組々長・市岡輝吉(広能昌三の兄弟分)は、天政会の混乱に乗じ、天政会参与・杉田佐吉を襲撃し射殺した。
この事件で不穏な動きを察知した県警は、天政会壊滅のため、武田以下首脳を順次検挙する方針を打ち立てた。保釈の身であった武田は、再逮捕される前に先手を打ち、腹心の若頭・松村保を三代目候補に推薦した。しかし、この処遇を快く思わない大友、早川は激しく反発、松村殺害を企てるが未遂に終る。その頃、網走刑務所に服役中の広能昌三は、獄中ひそかに過去の抗争を記録した手記を綴っていた。刑務所を訪れた市岡は、大揺れの天政会の現状と、今こそ広能に広島をとるチャンスが到来したと告げた。43年秋。市岡は、かねてより親しかった早川英男を介して、大友勝利と兄弟分の盃を交し、広島進出の足掛りを掴み、松村組の縄張り内に組員を送り込み挑発。44年11月15日。遂に腹に据えかねた松村は、市岡を殺害、これを期して
政治結社としての天政会を解散させると同時に傘下各組をも解散、自分の直属にした。
45年6月、武田が出所し再び会長に復帰。四ヵ月後に出所する広能を恐れていたのは
呉の槙原政吉だった。羽振りのいい槙原組に対し、広能組は先に殺された市岡輝吉の
報復もできず肩身の狭い思いをしていた。45年6月30日。呉市繁華街で広能組組員・清元が
槙原組々長を射殺。45年9月18日。広能昌三が七年振りに出所した。
武田は直ちに広能に天政会との関係を円満に運ばせるべく説得、松村も秘かに広能と会い
武田引退の旨を知せると同時に、広能にも引退を迫った。
この時、既に広能は引退を決意していた。
45年11月18日。三代目就任の決まった松村が、その挨拶に江田省一を伴って関西を訪れる途中、反対派の襲撃を受け、江田は即死、松村は重傷を負った。45年11月24日。松村は重体のまま、県警の中止警告や市民の批判を無視して、予定通り襲名披露を強行した。一方、広能は若頭・氏家を伴い式に参列、松村に組員たちの進退を依頼した。広能組が天政会の傘下に入ったため、槙原組は浮き上ってしまった。46年1月16日。追いつめられた組長なき槙原組々員は、広能組々員を襲撃、一人は即死、一人は重傷を負った。すでに、広能昌三の手の届かぬところで若者たちは流血を繰り返していた
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