google.com, pub-1751028613932834, DIRECT, f08c47fec0942fa0 —— 実録映画『仁義なき戦い』名言・名セリフ 「広島極道はイモかもしれんが旅の風下にたったこたぁいっぺんもないんでぇ。」: 共政会
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【元共政会幹部】広島ヤクザの独特ルールとシノギについて聞いてみた【仁義なき戦いモデル】

 


https://www.youtube.com/watch?v=YhgBZV7brHU&t=1478s

第三次広島抗争 共政会・浅野組VS十一会梶山一派・侠道会





第三次抗争は山村組が中心となって旗揚げした
連合組織である政治結社「共政会」の内紛が発端である。

初代会長・山村辰雄が昭和40年6月に引退
11月に出所して来た理事長・服部武が二代目を襲名する
服部二代目体制に反発したのが幹事長の山口英弘で
彼は引退を表明する。山口(英)組は同会を脱退し
十一会と名称を改めた。

服部は理事長に子飼いの山田久を任命、副会長に旧岡組の原田昭三を加え
「旧岡組・山村組」派閥の発言権を強めた。これに反発したのが
かつて岡組と敵対した同会顧問の村上正明だった

三代目を視野に入れた山田が連合組織から会長を頂点に一本化へと
組織改革を推し進めようとするが、村上は小原組幹部・宮岡輝雄と連携するのである



そして、昭和44年10月 村上組組員が山田との談判中に突如発砲
山田の配下が報復として宮岡輝雄を射殺する
宮岡組は親分が殺されたのは村上のせいであるとして
村上組との共闘を解消、その後村上組幹部が山田を支援したため、村上正明は失墜する

昭和45年9月 美能幸三が出所する。同年6月に樋上組組長・樋上実が
美能組組員に路上で射殺されていたため、彼の出所は新たな火種になると思われたが
兄弟分・波谷守之の懸命な説得により美能は引退を決意した。二代目美能組組長
さらに三代目小原組が共政会入りし、脱退していた十一会会長・竹野博士が山田から
盃をもらう。こうして三代目山田体制は既定路線となって行った

これに反対する十一会副会長・梶山慧は、共政会三代目襲名式6日前の昭和44年11月18日
大阪へ挨拶回り出向いていた山田久一行の乗った乗用車を、梶山派が襲撃した
山田は胸部に重傷を負った、襲名式は無理と思われたが、医師立会いのもとで
式を強行し三代目の座に就いた

山田久襲撃に使われた車が尾道・侠道会のものだった事から侠道会の関与が疑われた
侠道会はこれを否定したが、会長・森田幸吉は梶山の親分の山口英弘と兄弟分であり
その義理から梶山一派を支援した。一方、山田久三代目の後見人を務めていた笠岡の
浅野眞一組長は三代目共政会を支援する

こうして、共政会内紛に端を発した抗争は共政会・浅野組VS十一会梶山一派・侠道会
となって山陽道を揺るがすことになる。泥沼化し、終わりなき抗争とも思われたが
ここでも波谷守之が動き、森田の叔父貴分にあたる清水春日と説得にあたって
昭和45年5月に和解を見た






中国地方最大の抗争 警察の介入と抗争終結





1963年9月、堪り兼ねた広島県警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した
1965年6月9日、山村は引退を声明し、県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた
同年10月には二代目会長に服部武が就任。理事長には八月に出所した山田久が就いた
打越会との手打ちが成立するのは二年後の1967年8月25日である
海生逸一の斡旋によるもので、翌26日、打越信夫は弁護士と伴に広島西警察署を訪れ
打越会を解散し堅気になることを誓った

こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し
中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。山口組は実害が無かった
(被害は全て打越会に出た)ものの、結果的に広島進出に失敗し
進出の機会が当分閉ざされることとなった






第二次広島抗争 代理戦争 政治結社共政会を結成

亀井貢の密葬後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた
その報復を待たずしてさらに追い討ちを掛けるように1963年5月26日には
打越会を絶縁された山口英弘の若衆が打越会の組員を殴打する事件が起きた
(当時、山口(英)組の縄張りと打越会の縄張りがかぶっていて小競り合いが
続いていた)



直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲
路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した

打越側の報復は、打越信夫が抗争を嫌い雲隠れした事などから上手く組織が機能せず
当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。業を煮やして打越を見限った
山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で1340人の
山口組系組員を広島へ大動員し、山口組の力を見せつけた

しかし広島県警が機動隊など大量動員を掛けて抗争の一方の首謀者である
美能を7月5日に逮捕した、美能を逮捕された山口組は報復を出来ずに
帰らざるを得なかった

1963年9月可部温泉「松福荘」で射殺された打越会系西友会会長
岡友秋の葬儀の席上で

「これはあくまで美能組と山村組との親子喧嘩じゃけえー」
と報復に消極的な打越に対して山本は激怒し
「よう喧嘩も出来んで、なにが山口組の舎弟じゃ!笑わせるな!
自分の喧嘩を買いもせんで人様がなに応援してくれる!
そないに喧嘩したないんやったらわれはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎!」

(打越はタクシー会社を経営していた)と面罵し
山口組と広島のパイプを美能組にシフトした



それでも一向に動こうとしない打越会に業を煮やした西友会は1963年9月19日
山村組本拠キャバレー「パレス」爆破、続いて山村組幹部・原田昭三宅を
ダイナマイトで爆破、さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た
山村組の服部武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し
山口組本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた
(玄関のガラスも割れたが、一階には人がおらずけが人は出なかった)
名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から
山村組の仕業と思われていた
山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し
1964年5月に政治結社共政会(初代会長・山村辰雄)を結成して組織固めを行った






山口組の中国地方進出




1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題が噂される
 最有力候補は打越信夫だが、三羽烏と言われた網野光三郎
服部武、原田昭三や、義弟・永田重義も実力は伯仲していた

そのような折の1961年5月、美空ひばりの広島公演のため
三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)
が広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを
有利に進めようとした打越は、山本と美能幸三の仲介により
山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した

広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡はこの盃を嫌い
1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した
(岡にとって山村は兄貴分にあたり、跡目を格上に譲るのは異例と言えた)
かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し岡組組員百六十人を加えて
総勢二百二十人の大組織となり山陽最大の勢力を持つようになった

当然この事態は打越側に衝撃を与えた
同年6月には打越の舎弟で山口県宇部市の岩本組組長・岩本政治と
山村組幹部樋上実の兄弟分で山口県徳山市の浜部組組長・浜部一郎
との間で抗争が起き、その手打ち仲裁の不手際のため打越は窮地に追い込まれる
さらに、義理事で九州を訪れていた美能らは打越が刺客(岩本組)
を差し向けたとの噂を耳にする。

打越はこれを否定するが、ついには指を詰めさせられ、美能幸三、網野光三郎
原田昭三らとの兄弟盃も解消させられた。
打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した

当時は山口組側にも思惑があった
1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り
山陰においては1961年に本多会の松山芳太郎を殺害し
鳥取に進出。翌年には その鳥取に進出していた直参の
小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし山陰進出を着々と進めていた
山陽においては山口組若頭・地道行雄(地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる
現金屋の内紛に介入して熊本親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を
支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった

このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた
山口組にとって山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった
そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した
再三神戸に足を運び、ついに打越は、1962年9月に田岡の61番目の舎弟となり
打越組が山口組の配下に入り、「三代目山口組広島支部打越会」
と改称することになった

打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は
神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした





第一次広島抗争 映画『仁義なき戦い』のモデルとなった(1950年頃)呉市の抗争

第一次広島抗争は広島市の抗争と呉市の抗争に分かれる

本来は別々の抗争であるが、発生時期が共に戦後
間もなく争いが萌芽し呉で勝利した山村組が
広島で勝利した岡組を吸収する形でその後の
第二広島次抗争へと突入していくこととなるので
第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い

呉の抗争は、博徒・土岡組と山村組の抗争である
呉の覇権を狙って新興の山村組が土岡組に挑んでいった
呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず
山村組の内紛もあり、複雑さを増している





広島の抗争は戦後の広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の
勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争い
終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で
1950年に岡組舎弟・打越信夫[3](打越組組長)が
対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で
勢力を伸ばす結果となった。

戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では
岡の勢力が拡大しその中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎
服部武などの勢力が台頭した

また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し
若頭・佐々木哲彦、若衆・美能幸三らが台頭していた
岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて
岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく
山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に
兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった
この打越の縁組は、後に、いわゆる「仁義なき戦い」
へと導く一つの要因となった


ある勇気の記録 1966ー67年にかけて放送された広島の中国新聞の取り組んだ暴力団追放キャンペーン



原作はノンフィクション作品
『ある勇気の記録 -凶器の下の取材ノート-』
1963年から1967年まで、広島市周辺で起こっていた
第二次広島抗争時に中国新聞社が「暴力追放キャンペーン」
と銘打ち、1963年から1965年まで広島市と呉市を中心に
取材・報道活動を行い、そのペンの力で暴力団に敢然と
立ち向かった成果を出版したもので、1965年(昭和40年)
の第13回菊池寛賞を受賞した撮影は実際に広島県で行なわれ
セミドキュメンタリー作品として制作された



番組の冒頭で「この一篇を 暴力と斗(たたか)い
暴力に勝った 広島市民にささげる」
というテロップが登場していた。


広島抗争の中心人物 美能幸三(広能昌三) 菅原文太のセリフ

<美能 幸三は、日本の元ヤクザ、実業家。広島県呉市の美能組初代組長
広島県呉市出身。広島抗争の中心人物の一人であり、後にそのいきさつを描いた
『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物である






・なんよう、ワシガやっちゃろうか?あんたら、やってもみんと
 人に頼んだら、アンタらがハジかこうが・・

・馬のションベンいうんなら、ホンマの馬のションベン飲ましちゃろうか

・じゃが、わしゃあ山守のオヤジから、こんなをヤレ~いわれて来とるんじゃ

・盃は返しますけえ、今日以後わしを山守組のもんと思わんでつかいや

・サツにチンコロしたんはオドレらか!

・オドレの胸に聞いてみたらわかろうが・・

・狙われるもんより狙うもんの方が強いんじゃ
 そがあな考えしとるとスキができるど

・タマはまだ残っとるがよう



・知らん仏より、知ってる鬼のほうがましじゃけえのお

・広島の喧嘩いうたらトルかトラれるかの二つしかありゃぁせんので

・わしゃ、呉でおさまっとりゃ、ええんじゃ

・山守にも火傷させたれえや

・今の時代は、相手をとりさえすれば勝てる時代じゃあないんで
 それさえわかってくれりゃ、ええ

・もうわしらの時代は終いで
 口が肥えてきちょって、こう寒さが堪えるようになってはのぅ

・間尺に合わん仕事したのう

・死んだもんにすまんけえのう








映画「仁義なき戦い」の広島弁講座です 昔の広島弁







この映画を見られた方は、何を言ってるのか
わからないセリフもあるのかと思いました

管理人は広島出身ですので少し解説します

シリーズ五作に出てくる台詞で登場頻度が
多いと思われる広島弁です・・






「こんなぁ・・・」

お前・あなた・君

「おどりゃ~・おどれ!」

お前・あなた・君

「わりゃ~・・・」

お前・あなた・君


「~つかあさいや」

何々よろしくお願いいたします
何々してください

「~ど!~どお?」

何々です 何々ですよね?

「~で!~でぇ?」

何々です 何々ですよね?


「なんなら? ~なら?」

なんですか?
どうしたんですか?
どうしますか?

「~じゃけえ ~ですけえ」

なになにです
なになにですから

「~つかいや」

そうだから!
何なにですから・・

まあ、こんなもんじゃろかい?











仁義なき戦い 不朽の名作と称えられる衝撃の第1作【1973年1月13日公開】



終戦直後の呉。復員後遊び人の群れに身を投じていた広能昌三は
その度胸と気っぷの良さが山守組々長・山守義雄の目にとまり
山守組の身内となった当時の呉には土居組、上田組など四つの主要な組があったが
山守組はまだ微々たる勢力にしかすぎなかった。
そこで山守は上田組と手を結ぶことに成功し当面の敵、土居組との抗争に全力を注ぐ
その土居組では組長の土居清と若頭・若杉が仲が悪く事あるごとに対立しとうとう若杉は
破門されてしまった。

そして、若杉は以前からの知り合いである広能を通じて山守組へと接近していった
若杉の山守組加入で、土居殺害の計画は一気に運ばれた
広能は土居殺害を名乗り出た若杉を押し止どめ、自ら土居を襲撃し、暗殺に成功
ところがそれ以来、山守の広能に対する態度が一変し、組の邪魔者扱いにするようになり
広能は結局自主して出るのだった。その態度に怒った若杉が、山守の若い衆を殺害
したことから警察に追われ、激しい銃撃戦の後、殺された。 その間にも、土居組の崩壊と
反比例して、山守組は増々勢力を伸ばしていった




しかし、その組の中でも、主流派の坂井鉄也と、反主流派の有田俊雄という
二つの派閥が生まれ、山守を無視しての内戦が始まっていた



まず、市会議員・金丸と、土居組の残党を味方に引き入れ勢いづいた有田は
坂井の舎弟山方、兄弟分上田を殺害した。激怒した坂井は有田を破門するとともに
報復に出た。次々と射殺される有田一派、ついに血で血を流す凄惨な抗争車件に
発展してしまった。そして、警察の出動により有田は逮捕、兄貴分の新開は殺された
勝ち残った坂井は、広島の海渡組と手を組み、山守に替って呉を支配するかのように
振るまうようになった。


やがて今ままでの内戦を黙視していた山守の巻き返しが始まった
山守は、丁度その時仮釈放で出所した広能に坂井暗殺を捉した。
冷酷な山守の魂胆を見抜いている広能は、微妙な立場に立たされた
山守に従う気はないが、そうかと言って坂井に手を貸す気もなかった
そんな時、矢野組々長・矢野修司が坂井と海渡組の手を切るぺく画策中に殺された
山守の恐るぺき執念がついに実行される。
殺気立っていた矢野組々員をけしかけ坂井を襲撃させたのである。
坂井は血だるまになるまで銃弾を受けた翌日、坂井の葬儀が盛大に行われた。


広能はかつて憧れたやくざ社会に虚しさと怒りを抱きながら
無傷の喪主山守の 前を去っていった


仁義なき戦い 頂上作戦 広島ヤクザ抗争の終焉を描く第4作【1974年1月15日公開】




昭和38年春/西日本広域暴力団明石組と、ライバル神和会との代理戦争とも言うべき
広島抗争は、激化する一方だった。明石組系の打本組(広島)と広能組(呉)
神和会系の山守組(広島)の双方は、はっきりと対立の様相を呈していた。
同年5月相次ぐ暴力事件への市民の批判と相まって、警察は暴力団撲滅運動に乗り出し
“頂上作戦”を敷いた。その頃、呉市では広能組が、山守組傘下の槙原組と対立していた。
広能と打本は、広島の義西会・岡島友次に応援を依頼し、ひたすら中立を守る岡島を
明石組の岩井も説得する。やがて、広能組の若衆河西が、槙原組の的場に射殺されたことから
広能と山守の対立は正に一触即発となった。一方、広島では、打本組々員三上が
誤って打本の堅気の客を殺害したことから、一般市民、マスコミの反撥が燃えあがり
警察も暴力取締り強化に本腰を入れはじめた。その頃、山守組系の早川組若衆仲本が
女をめぐって打本組の福田を襲撃、惨殺した。同年6月19日/山守組傘下の江田組々員が
打本組の若衆に凄絶なリンチを加え、一人を死に至らしめた。

だが、打本は、その弱腰から報復に打って出なかった。広能は、岩井の発案で
殺された組員河西の葬式を行なうという名目で、全国各地から応援千六百人を集め
一気に山守組に攻め込もうとした。同年7月4日/打本が、山守系の武田組に位致さ
、山守に脅迫されたために、広能の計画を吐いてしまった。山守は早速、警察に密告する。
同年7月5日/広能は別件容疑で逮捕され、明石組とその応援組員は呉から退去
ここに形勢は逆転し山守、福原が呉を支配するようになった。
以後も、広熊組と槙原組との間に、血の応酬が相次いだ。
同年8月下旬/岡島友次は、愚連隊川田組々長を金で買収し、山守勢と対決すべく決心をした。同年9月8日/岡島の動向をキャッチした山守は、組員吉井に、岡島を射殺させた。
同年9月12日/打本組の谷口等が山守組のアジトに、義西会の藤田等が江田組事務所に
それぞれ爆弾を投げ込んだ。

同年9月21日/命を狙われ憔悴した山守は、早川組のバーに身を隠していたが
そこにも打本組々員が殴り込み、山守はからくも逃亡した。いきり立つ打本組若衆たちは
山守・江田両組の組員たちと凄絶な市街戦を行ない、市民を恐怖のどん底に陥入れた。
暴力団追放の世論が沸騰し、警察と検察当局は、ついに幹部組長一斉検挙に踏み切った。
やがて、山守は逮捕された。一方、岩井は、広島に乗り込んで義西会を中心に陣営の
再建に着手し始めるが、武田は、暴力団を糾合して、岩井の挑戦を真向から受けて立った
同年9月24日/明石組事務所を、武田組組員が爆破。明石組は、これを神和会の仕業と誤解して即座に報復したために、武田組と岩井組の間で、激烈な銃撃戦の火ブタが切って落された


かくして、広島抗争事件は、西日本をゆるがす大流血事件と発展してしまった
死者17名、負傷者20余人を出した実りなき抗争
広能は、ひとり獄舎で深い虚しさを噛みしめていた






仁義なき戦い 完結篇 終焉から世代交代がもたらす新たな抗争を描く第5作【1974年6月29日公開】



警察の“頂上作戦”で幹部連中が大量に検挙された後、大友組が勢力を回復
広島やくざ組織は、山守組、打本会、大友組の三巴の対立となっていた。
だが、彼らは警察の目を欺くために山守義雄を会長に、傘下の武田組、江田組
早川組(元打本会)、大友紙、呉の槙原組、さらに徳山、福山など近郊都市の組織までも
大同団結させて、政治結社「天政会」を発足させた。
昭和41年春。天政会々長の二代目を継いだ武田明は、警察の取締りに対処し
会の再建強化を図るが、反主流派の大友、早川らの反発にあう
41年4月3日。天政会にすっかり抑えられていた呉の市岡組々長・市岡輝吉(広能昌三の兄弟分)は、天政会の混乱に乗じ、天政会参与・杉田佐吉を襲撃し射殺した。



この事件で不穏な動きを察知した県警は、天政会壊滅のため、武田以下首脳を順次検挙する方針を打ち立てた。保釈の身であった武田は、再逮捕される前に先手を打ち、腹心の若頭・松村保を三代目候補に推薦した。しかし、この処遇を快く思わない大友、早川は激しく反発、松村殺害を企てるが未遂に終る。その頃、網走刑務所に服役中の広能昌三は、獄中ひそかに過去の抗争を記録した手記を綴っていた。刑務所を訪れた市岡は、大揺れの天政会の現状と、今こそ広能に広島をとるチャンスが到来したと告げた。43年秋。市岡は、かねてより親しかった早川英男を介して、大友勝利と兄弟分の盃を交し、広島進出の足掛りを掴み、松村組の縄張り内に組員を送り込み挑発。44年11月15日。遂に腹に据えかねた松村は、市岡を殺害、これを期して
政治結社としての天政会を解散させると同時に傘下各組をも解散、自分の直属にした。


45年6月、武田が出所し再び会長に復帰。四ヵ月後に出所する広能を恐れていたのは
呉の槙原政吉だった。羽振りのいい槙原組に対し、広能組は先に殺された市岡輝吉の
報復もできず肩身の狭い思いをしていた。45年6月30日。呉市繁華街で広能組組員・清元が
槙原組々長を射殺。45年9月18日。広能昌三が七年振りに出所した。
武田は直ちに広能に天政会との関係を円満に運ばせるべく説得、松村も秘かに広能と会い
武田引退の旨を知せると同時に、広能にも引退を迫った。
この時、既に広能は引退を決意していた。
45年11月18日。三代目就任の決まった松村が、その挨拶に江田省一を伴って関西を訪れる途中、反対派の襲撃を受け、江田は即死、松村は重傷を負った。45年11月24日。松村は重体のまま、県警の中止警告や市民の批判を無視して、予定通り襲名披露を強行した。一方、広能は若頭・氏家を伴い式に参列、松村に組員たちの進退を依頼した。広能組が天政会の傘下に入ったため、槙原組は浮き上ってしまった。46年1月16日。追いつめられた組長なき槙原組々員は、広能組々員を襲撃、一人は即死、一人は重傷を負った。すでに、広能昌三の手の届かぬところで若者たちは流血を繰り返していた