google.com, pub-1751028613932834, DIRECT, f08c47fec0942fa0 —— 実録映画『仁義なき戦い』名言・名セリフ 「広島極道はイモかもしれんが旅の風下にたったこたぁいっぺんもないんでぇ。」: 仁義なき戦い完結篇
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完結編『命懸けで松村が襲名式を決行』

 広島では武田が政治結社である天政会を結成したが、広能の舎弟である市岡輝吉(いちおかてるきち)は天政会に不満を抱いておりを潰そうと目論んでいた。また広能組の若頭である氏家厚司(うじいえこうじ)にも、天政会には参加するなと言い伝えていた。

その後天政会参与である杉田佐吉(すぎたさきち)が市岡の指示によって殺害され、天政会には亀裂が入っていた。その後武田は幹部達を集め次期会長に武田組若頭である松村保(まつむらたもつ)を推薦するが、大友を推薦する早川が反対していた。だが、同席していた大久保が松村を推薦した事により次期会長は松村に決定するのだった。
ある日服役中の広能に市岡が面会に訪れ天政会が分裂の危機にあると伝え、その後大友と盃を交わし天政会に対抗する準備をしていた。だが市岡は松村の子分に殺害されてしまい、敵討をしようとした大友も逮捕されてしまった事で大友一派は壊滅してしまった。
その後出所したばかりの広能を武田が尋ね、自分と一緒に引退してほしいと伝えたが市岡を殺された広能は要求を断るのだった。さらに静養中の広能を松村が尋ね、氏家を天政会に迎える代わりに引退を要求してきたがまたしても広能は断るのだった。
それから松村は天政会の襲名披露を控え挨拶回りのため大阪に滞在していたが、そこで元大友組の組員らに襲撃され昏睡状態に陥ってしまう。松村はかろうじて一命を取り止めたが、武田から警察の圧力により襲名披露が中止になった事を知らされる。だが松村は「ここで諦めれば天政会がバラバラになる」と言い、武田に会場の手配を依頼した。そしてその会場に広能が現れ、氏家を出席させてくれるよう頼むのだった。そして命懸けで松村が襲名式を決行した事を知り、引退を決意するのだった。

『仁義なき戦い』: 抗争とサングラスの象徴としての小林旭

「仁義なき戦い」シリーズは、広島で繰り広げられた戦後最大の抗争事件を描いた東映の実録映画であり、大ヒットを記録しました。この記事では、このシリーズの制作秘話と主演の小林旭が語るエピソードについて紹介します。また、小林旭がサングラスを着用した理由や役作りの参考にした服部武氏との出会いについても触れます。 

 「仁義なき戦い」シリーズは、昭和48年に1作目が公開されてから今年で50年が経ちます。このシリーズは、東映が従来の任侠路線から実録映画に舵を切った作品であり、広島の抗争事件を描いたことで注目を浴びました。特に小林旭が主演し、サングラスをかけた姿が異彩を放っていました。 小林旭は、「サングラスをかけたのは、深作欣二監督の提案だった」と語っています。深作監督は、「旭さんは目が優しすぎるから、色眼鏡をかけた方がいい」と提案し、小林旭もそれに賛同しました。彼自身は色眼鏡をあまり好きではなかったが、映画では表情でキャラクターを表現することを心がけました。 

 小林旭が演じたのは広島のヤクザ・武田明という役で、モデルとなったのは服部武氏です。小林は撮影に入る前に服部氏と直接会い、彼の本質や鋭さ、動き方などを感じ取ろうとしました。初めて会った時、服部氏はキャバレーの中でスポットライトに照らされ、周りを若衆が囲んでいた光景が印象的でした。 小林は服部氏からの話を通じて、広島のやくざをまとめようとした彼の貫禄や気概を感じ取りました。彼の鋭さや先を見通した動き方などは、作品でも表現されたのではないかと述べています。 

 さらに、小林旭はこの連載で、東映の「仁義なき戦い」シリーズに出演するまでの経緯や、共演した高倉健との思い出についても語っています。 「仁義なき戦い」シリーズは、東映の実録映画として広島の抗争事件を描いた作品であり、小林旭のサングラス姿が特徴的でした。サングラスは深作欣二監督の提案であり、小林旭は役作りのために服部武氏との出会いから多くを学びました。彼の存在感や役柄の表現は、そのままスクリーン上で観客に伝わりました。今回の連載では、小林旭がその制作秘話や貴重なエピソードを語っており、ファンにとっては必見の内容です。 


2023年7月10日発売の月刊「文藝春秋」8月号と「 文藝春秋 電子版 」

仁義なき戦い 完結篇 終焉から世代交代がもたらす新たな抗争を描く第5作【1974年6月29日公開】



警察の“頂上作戦”で幹部連中が大量に検挙された後、大友組が勢力を回復
広島やくざ組織は、山守組、打本会、大友組の三巴の対立となっていた。
だが、彼らは警察の目を欺くために山守義雄を会長に、傘下の武田組、江田組
早川組(元打本会)、大友紙、呉の槙原組、さらに徳山、福山など近郊都市の組織までも
大同団結させて、政治結社「天政会」を発足させた。
昭和41年春。天政会々長の二代目を継いだ武田明は、警察の取締りに対処し
会の再建強化を図るが、反主流派の大友、早川らの反発にあう
41年4月3日。天政会にすっかり抑えられていた呉の市岡組々長・市岡輝吉(広能昌三の兄弟分)は、天政会の混乱に乗じ、天政会参与・杉田佐吉を襲撃し射殺した。



この事件で不穏な動きを察知した県警は、天政会壊滅のため、武田以下首脳を順次検挙する方針を打ち立てた。保釈の身であった武田は、再逮捕される前に先手を打ち、腹心の若頭・松村保を三代目候補に推薦した。しかし、この処遇を快く思わない大友、早川は激しく反発、松村殺害を企てるが未遂に終る。その頃、網走刑務所に服役中の広能昌三は、獄中ひそかに過去の抗争を記録した手記を綴っていた。刑務所を訪れた市岡は、大揺れの天政会の現状と、今こそ広能に広島をとるチャンスが到来したと告げた。43年秋。市岡は、かねてより親しかった早川英男を介して、大友勝利と兄弟分の盃を交し、広島進出の足掛りを掴み、松村組の縄張り内に組員を送り込み挑発。44年11月15日。遂に腹に据えかねた松村は、市岡を殺害、これを期して
政治結社としての天政会を解散させると同時に傘下各組をも解散、自分の直属にした。


45年6月、武田が出所し再び会長に復帰。四ヵ月後に出所する広能を恐れていたのは
呉の槙原政吉だった。羽振りのいい槙原組に対し、広能組は先に殺された市岡輝吉の
報復もできず肩身の狭い思いをしていた。45年6月30日。呉市繁華街で広能組組員・清元が
槙原組々長を射殺。45年9月18日。広能昌三が七年振りに出所した。
武田は直ちに広能に天政会との関係を円満に運ばせるべく説得、松村も秘かに広能と会い
武田引退の旨を知せると同時に、広能にも引退を迫った。
この時、既に広能は引退を決意していた。
45年11月18日。三代目就任の決まった松村が、その挨拶に江田省一を伴って関西を訪れる途中、反対派の襲撃を受け、江田は即死、松村は重傷を負った。45年11月24日。松村は重体のまま、県警の中止警告や市民の批判を無視して、予定通り襲名披露を強行した。一方、広能は若頭・氏家を伴い式に参列、松村に組員たちの進退を依頼した。広能組が天政会の傘下に入ったため、槙原組は浮き上ってしまった。46年1月16日。追いつめられた組長なき槙原組々員は、広能組々員を襲撃、一人は即死、一人は重傷を負った。すでに、広能昌三の手の届かぬところで若者たちは流血を繰り返していた