google.com, pub-1751028613932834, DIRECT, f08c47fec0942fa0 —— 実録映画『仁義なき戦い』名言・名セリフ 「広島極道はイモかもしれんが旅の風下にたったこたぁいっぺんもないんでぇ。」: 広島抗争
ラベル 広島抗争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 広島抗争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

『仁義なき戦い』シリーズの概要

 『仁義なき戦い』シリーズとは、1973年1月に公開された菅原文太(すがわらぶんた)主演のヤクザ映画の総称であり、原作は作家の飯干晃一が書いたノンフィクション小説である。第1作の『仁義なき戦い』から『新仁義なき戦い組長の首』までの監督は、数々のヒット作を手がけた深作欣二(ふかさくきんじ)である。脚本は多数の任侠映画を手がけた笠原和夫(かさはらかずお)が担当している。また本作はシリーズ物となっており、監督や主演が異なる作品を含めると計11作品が公開されている。尚、本作品は広島で起きた抗争事件について描かれており、当事者であった美能幸三(みのうこうぞう)の手記を元に描かれている。第1作から完結編まではヤクザ社会の矛盾や悲惨さを描いており、それ以降のシリーズでは架空のヤクザ組織の争いについて描かれている。

本作が公開された1970年代は時代劇の現代版と呼ばれる、義理人情や勧善懲悪型のストーリーの任侠映画が全盛であった。だが本作は従来の作品とは異なり、仲間内での抗争や幹部組員達の政治的駆け引きなどヤクザ社会の内面が描かれている。これ以降実話を元にした「実録路線」と言われる作品が相次いで公開されることになるなど、映画界に影響を与えた作品となっている。また主演の菅原文太の出世作としても知られているが、「大部屋俳優」と呼ばれる脇役を演じる役者達が本作によって脚光を浴びるきっかけともなった。彼らは後に「ピラニア軍団」と呼ばれ、ヤクザ映画にとどまらず様々な作品で活躍するようになる。
シリーズを通じて、第1作は第47回「キネマ旬報ベストテン」や、「日本映画ベスト・テン」第2位、「読者選出日本映画ベスト・テン」第1位を受賞している。さらに深作欣二が「読者選出日本映画監督」、笠原和夫が「脚本賞」、菅原文太が「主演男優賞」に選ばれている。また、深作と菅原の両名で第11回「ゴールデンアロー賞映画賞」を受賞している。1作目から3作目にかけては連続して「朝日ベストテン映画祭」の第1位となっており、第4作目では「日本映画ベスト・テン」第7位など多数の受賞歴がある。
関連書籍も数多く出版され、2003年にはNHKのドキュメンタリー番組にて「日本映画の金字塔」と紹介されるなど、ヤクザ映画の範疇にとどまらない影響を与えている。

『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973)

 

『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973)

中国地方最大の抗争 警察の介入と抗争終結





1963年9月、堪り兼ねた広島県警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した
1965年6月9日、山村は引退を声明し、県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた
同年10月には二代目会長に服部武が就任。理事長には八月に出所した山田久が就いた
打越会との手打ちが成立するのは二年後の1967年8月25日である
海生逸一の斡旋によるもので、翌26日、打越信夫は弁護士と伴に広島西警察署を訪れ
打越会を解散し堅気になることを誓った

こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し
中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。山口組は実害が無かった
(被害は全て打越会に出た)ものの、結果的に広島進出に失敗し
進出の機会が当分閉ざされることとなった






山口組の中国地方進出




1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題が噂される
 最有力候補は打越信夫だが、三羽烏と言われた網野光三郎
服部武、原田昭三や、義弟・永田重義も実力は伯仲していた

そのような折の1961年5月、美空ひばりの広島公演のため
三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)
が広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを
有利に進めようとした打越は、山本と美能幸三の仲介により
山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した

広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡はこの盃を嫌い
1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した
(岡にとって山村は兄貴分にあたり、跡目を格上に譲るのは異例と言えた)
かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し岡組組員百六十人を加えて
総勢二百二十人の大組織となり山陽最大の勢力を持つようになった

当然この事態は打越側に衝撃を与えた
同年6月には打越の舎弟で山口県宇部市の岩本組組長・岩本政治と
山村組幹部樋上実の兄弟分で山口県徳山市の浜部組組長・浜部一郎
との間で抗争が起き、その手打ち仲裁の不手際のため打越は窮地に追い込まれる
さらに、義理事で九州を訪れていた美能らは打越が刺客(岩本組)
を差し向けたとの噂を耳にする。

打越はこれを否定するが、ついには指を詰めさせられ、美能幸三、網野光三郎
原田昭三らとの兄弟盃も解消させられた。
打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した

当時は山口組側にも思惑があった
1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り
山陰においては1961年に本多会の松山芳太郎を殺害し
鳥取に進出。翌年には その鳥取に進出していた直参の
小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし山陰進出を着々と進めていた
山陽においては山口組若頭・地道行雄(地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる
現金屋の内紛に介入して熊本親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を
支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった

このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた
山口組にとって山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった
そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した
再三神戸に足を運び、ついに打越は、1962年9月に田岡の61番目の舎弟となり
打越組が山口組の配下に入り、「三代目山口組広島支部打越会」
と改称することになった

打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は
神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした





第一次広島抗争 映画『仁義なき戦い』のモデルとなった(1950年頃)呉市の抗争

第一次広島抗争は広島市の抗争と呉市の抗争に分かれる

本来は別々の抗争であるが、発生時期が共に戦後
間もなく争いが萌芽し呉で勝利した山村組が
広島で勝利した岡組を吸収する形でその後の
第二広島次抗争へと突入していくこととなるので
第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い

呉の抗争は、博徒・土岡組と山村組の抗争である
呉の覇権を狙って新興の山村組が土岡組に挑んでいった
呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず
山村組の内紛もあり、複雑さを増している





広島の抗争は戦後の広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の
勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争い
終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で
1950年に岡組舎弟・打越信夫[3](打越組組長)が
対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で
勢力を伸ばす結果となった。

戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では
岡の勢力が拡大しその中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎
服部武などの勢力が台頭した

また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し
若頭・佐々木哲彦、若衆・美能幸三らが台頭していた
岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて
岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく
山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に
兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった
この打越の縁組は、後に、いわゆる「仁義なき戦い」
へと導く一つの要因となった


ある勇気の記録 1966ー67年にかけて放送された広島の中国新聞の取り組んだ暴力団追放キャンペーン



原作はノンフィクション作品
『ある勇気の記録 -凶器の下の取材ノート-』
1963年から1967年まで、広島市周辺で起こっていた
第二次広島抗争時に中国新聞社が「暴力追放キャンペーン」
と銘打ち、1963年から1965年まで広島市と呉市を中心に
取材・報道活動を行い、そのペンの力で暴力団に敢然と
立ち向かった成果を出版したもので、1965年(昭和40年)
の第13回菊池寛賞を受賞した撮影は実際に広島県で行なわれ
セミドキュメンタリー作品として制作された



番組の冒頭で「この一篇を 暴力と斗(たたか)い
暴力に勝った 広島市民にささげる」
というテロップが登場していた。


顔の怖さはシリーズ中トップ!!岩井信一(梅宮辰夫)のセリフ

梅宮辰夫(岩井信一)

明石組幹部で岩井組組長、顔、怖いですけえー
広能とは昔からの知り合いで「しょうちゃん」と「しんちゃん」
と呼び合う仲である、最終的には兄弟分となる。
凄みのある関西弁で下を回してました。





 【わしらタクシー屋のおっちゃんに用はないさかい
これから1人で歩いたらよろしいがな。でもええでっか
前向いても崖や、後ろを向いても崖やで!】

『頂上作戦』

  代理戦争でありながら、山守義雄の襲撃を決起しない打本昇(加藤武)に対し
岩井はしびれを切らして「あんた、タクシー屋のおっちゃんか」と皮肉を込める
「事業一本に絞りたい」と弱気な打本の返事に対し、岩井は「崖」の言葉を叩きつけた






「そんな極楽は極道の世界にはないで、
人を喰わにゃあ、おのれが喰われる、そうとちゃうか?」

『代理戦争』

  岩井は盟友の広能昌三に対し、山守義雄組長を追い落として広島を手に入れたらどうかと提案。だが広能は「わしゃ呉で収まっとりゃええ」と静観。岩井は「そんな極楽は極道の世界にはない」と叱咤する。1文字違いの「極楽」と「極道」の大きな差だ。




【おんどれらも、吐いた唾飲まんとけよ】

『頂上作戦』

 「吐いた唾飲まんとけよ」とは、「いったん口にした言葉を忘れるなよ」という最後通牒である。幼かった娘・アンナが泣き叫んだという逸話を持つ、梅宮辰夫の「眉毛を剃り落とした異様な姿」が、セリフの凄味を増幅する。ケンカの常套句として今に継承されている。

仁義なき戦い「広島死闘編」孤高の伝説キャラ “大友勝利”!  大友勝利(千葉真一)のセリフ



仁義なき戦い 広島死闘篇で
ヤクザ映画史上伝説として語り継がれる
この稀代のイカレキャラが登場する

「村岡が持っちょるこつは何を売っちょるの?
淫売じゃないの,言うならアレら~
オ○コの汁で飯食うとるんど!!」

放送禁止用語をブチ回すヤバイ男・・
大友勝利(千葉真一)である


出演時の思い出を語るを語られています。

実は最初、北大路欣也ちゃんが演じた山中正治が僕の役だったんです。
脚本の笠原和夫さんは、その前に『日本暗殺秘録』(1969年)で
僕が演じた小沼正のヤクザ版として山中を描いた。
だから僕も山中のセリフは完全に入っていた。



それを欣也ちゃんが「大友はできない」と言ったから
クランクイン直前で役が入れ替わった。実は彼とは役柄交代は2回目。
そりゃあ、向こうは市川右太衛門さんの御曹司で、こっちは雑草。
それでも2回目となると「勝手にしやがれ!」と思ったけど
ふと考えたらあの深作欣二が違うと思ったら絶対に曲げるわけがない。

ははぁん、これは監督の陰謀か……そうか、それならやってやろう。
そう思って改めてシナリオを読んでみたら「何じゃこれ!」なわけです。
山中とは180度違う役柄で、欣也ちゃんが役者として降りたのもわかる

エゲツないセリフばかりだけど、読んでいくと段々と
「これ、おもしろいな」と役柄が自分の中に入っていく。
深作監督も、山中よりも大友に気持ちが入っていることもわかった



ただ千葉真一として、どうやって演じたらいいのか? 
1週間、考えに考え抜いて「これだ!」とひらめき、またアタマから
シナリオを読み直して、その段階で90%はできあがっていたかもしれません。
一言で言えば「千葉真一」を捨てること。
何なら芸名ごと「大友勝利」に変えてもいいと思ったくらい。

あの頃の僕は、テレビドラマの『キイハンター』などで
アイドル俳優と呼ばれていたけど、それを全部、捨てようと。
大友になるために、特徴的な目をサングラスで隠し、
ファンキーハットに赤いリボンを巻いて。
登場シーンでは唇を引っくり返して割り箸をくわえているんです

あとは何か……そうだ、木刀を持たせよう、と
深作監督と話しながら、暴力的なキャラクターを作り上げていきました。

〈あんた等も飯食えんような体になってもらいますけん!〉

そんなセリフが、そこいらを木刀で叩き壊すことによって一段と映えてくる
監督に「僕の広島弁は大丈夫か?」と聞くと、水戸訛りの監督は
「アクセントなんかどうだっていいんだ、雰囲気さえ出ていれば」
と答えましたね。役者人生でこんなに悩んだ役もなかったけど、
それだけ「大友勝利」には愛着も深いですね。








映画「仁義なき戦い」の広島弁講座です 昔の広島弁







この映画を見られた方は、何を言ってるのか
わからないセリフもあるのかと思いました

管理人は広島出身ですので少し解説します

シリーズ五作に出てくる台詞で登場頻度が
多いと思われる広島弁です・・






「こんなぁ・・・」

お前・あなた・君

「おどりゃ~・おどれ!」

お前・あなた・君

「わりゃ~・・・」

お前・あなた・君


「~つかあさいや」

何々よろしくお願いいたします
何々してください

「~ど!~どお?」

何々です 何々ですよね?

「~で!~でぇ?」

何々です 何々ですよね?


「なんなら? ~なら?」

なんですか?
どうしたんですか?
どうしますか?

「~じゃけえ ~ですけえ」

なになにです
なになにですから

「~つかいや」

そうだから!
何なにですから・・

まあ、こんなもんじゃろかい?











仁義なき戦い 代理戦争 広島から西日本を巻き込んだ混迷の群像劇へと進む第3作【1973年9月25日公開】


昭和三十五年四月
広島市最大の暴力団村岡組の第一の実力者杉原が博奕のもつれから九州のやくざに殺された杉原の兄弟分打本組々長打本はこの時きっちりと落し前をつけなかったために村岡組の跡目をめぐって熾烈な抗争が起こることになった山守も村岡組の跡目に野心をもつ一人で、広島に顔の利く広能を強引に山守組傘下に復縁させた。一方、打本も、村岡組の幹部江田と共に広能と兄弟盃を交わし、更に日本最大の暴力団神戸の明石組へ広能を介して盃を申し入れた。
そして、打本は明石組々長明石辰男の舎弟相原と兄弟盃を交わした。
しかし、明石組の勢力をバックに村岡組の跡目を狙う打本の思惑は村岡の気分を
害することになり、跡目は山守に譲られた。

かくして、山守組は広島最大の組織にのし上った
その頃、山守系の槙原の舎弟分浜崎と打本の舎弟分小森が岩国でもめていた。山守は傘下の者を督励して岩国へ兵隊を送った。打本と兄弟分の広能や江田はそれには参加しなかったが、筋目を通すために松永、武田と共に打本に盃を返した。孤立無援になった打本は指を詰め、明石組へと逃れた。明石組は早速、最高幹部の宮地や相原を広島に送った。やむなく広能たちは打本に詫びを入れ、浜崎と小森は打本の仲裁で手打ち、という事になった。これは事実上山守組の敗北である。やがて、打本は兼ねての念願が叶って明石辰男から盃を受け、その傘下に加った。結果、明石組は遂に広島にくさびを打ち込んだことになった。山守は対抗上、明石組に対抗できる唯一の暴力団、同じ神戸の神和会と縁組みすることにして、その斡旋を広能に依頼するが、広能は冷たく拒否した。数日後、広能は槙原の若い者に命を狙われた。広能ははっきり山守の存在がこの世界のためにならぬと思い、罠にはめるべく、神和会との渡りをつけた。神和会は山守組と兄弟盃を交わした。これによって広島に於いて二大勢力の対決という事になったが、明石組は広能らに打本との盃を復活するようにと強硬に申し入れてきた。広能は打本との盃を復活した。それを知った神和会は山守の責任を厳しく追求してきた。広能の思惑は見事に当ったが、しかし老獪な山守は、全ての責任を広能におしつけ、破門することで逃れた。明石組は、広能の窮地を救うため、打本に命じて武田、松永らを絶縁させた。しかし武田は、元打本組の早川を抱き込み、打本を襲撃した。昭和三十八年五月、遂に広島抗争事件の幕が切って落された


仁義なき戦い 完結篇 終焉から世代交代がもたらす新たな抗争を描く第5作【1974年6月29日公開】



警察の“頂上作戦”で幹部連中が大量に検挙された後、大友組が勢力を回復
広島やくざ組織は、山守組、打本会、大友組の三巴の対立となっていた。
だが、彼らは警察の目を欺くために山守義雄を会長に、傘下の武田組、江田組
早川組(元打本会)、大友紙、呉の槙原組、さらに徳山、福山など近郊都市の組織までも
大同団結させて、政治結社「天政会」を発足させた。
昭和41年春。天政会々長の二代目を継いだ武田明は、警察の取締りに対処し
会の再建強化を図るが、反主流派の大友、早川らの反発にあう
41年4月3日。天政会にすっかり抑えられていた呉の市岡組々長・市岡輝吉(広能昌三の兄弟分)は、天政会の混乱に乗じ、天政会参与・杉田佐吉を襲撃し射殺した。



この事件で不穏な動きを察知した県警は、天政会壊滅のため、武田以下首脳を順次検挙する方針を打ち立てた。保釈の身であった武田は、再逮捕される前に先手を打ち、腹心の若頭・松村保を三代目候補に推薦した。しかし、この処遇を快く思わない大友、早川は激しく反発、松村殺害を企てるが未遂に終る。その頃、網走刑務所に服役中の広能昌三は、獄中ひそかに過去の抗争を記録した手記を綴っていた。刑務所を訪れた市岡は、大揺れの天政会の現状と、今こそ広能に広島をとるチャンスが到来したと告げた。43年秋。市岡は、かねてより親しかった早川英男を介して、大友勝利と兄弟分の盃を交し、広島進出の足掛りを掴み、松村組の縄張り内に組員を送り込み挑発。44年11月15日。遂に腹に据えかねた松村は、市岡を殺害、これを期して
政治結社としての天政会を解散させると同時に傘下各組をも解散、自分の直属にした。


45年6月、武田が出所し再び会長に復帰。四ヵ月後に出所する広能を恐れていたのは
呉の槙原政吉だった。羽振りのいい槙原組に対し、広能組は先に殺された市岡輝吉の
報復もできず肩身の狭い思いをしていた。45年6月30日。呉市繁華街で広能組組員・清元が
槙原組々長を射殺。45年9月18日。広能昌三が七年振りに出所した。
武田は直ちに広能に天政会との関係を円満に運ばせるべく説得、松村も秘かに広能と会い
武田引退の旨を知せると同時に、広能にも引退を迫った。
この時、既に広能は引退を決意していた。
45年11月18日。三代目就任の決まった松村が、その挨拶に江田省一を伴って関西を訪れる途中、反対派の襲撃を受け、江田は即死、松村は重傷を負った。45年11月24日。松村は重体のまま、県警の中止警告や市民の批判を無視して、予定通り襲名披露を強行した。一方、広能は若頭・氏家を伴い式に参列、松村に組員たちの進退を依頼した。広能組が天政会の傘下に入ったため、槙原組は浮き上ってしまった。46年1月16日。追いつめられた組長なき槙原組々員は、広能組々員を襲撃、一人は即死、一人は重傷を負った。すでに、広能昌三の手の届かぬところで若者たちは流血を繰り返していた