美能幸三 『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物
大正15年(1926年)7月31日、広島県呉市に生まれる
父親は退役軍人で海軍工場に勤め、母親は小学校の教員だった
呉第二中学校2年で退学し、毎日ぶらぶらとしていたが
昭和17年(1942年)に大日本帝国海軍に志願し大竹海兵団に入団
ラバウル、硫黄島を転戦しトラック島で終戦を迎え
浦賀に上陸し昭和20年(1945年)11月26日、復員
呉に帰郷後は遊び人に身を投じ、昭和22年(1947年)5月末
呉市朝日町の遊郭で山村組組員と旅のヤクザが喧嘩になったことが発端となり
美能は友人に日本刀で怪我をさせた旅のヤクザを呉駅前で射殺、翌日に逮捕
3日目に山村辰雄と谷岡千代松(山村組顧問格)が面会に訪れて美能が口を割らず
1人で罪を被ったことを褒め、山村組の若衆にならないかと誘われる。吉浦拘置所で
悪魔のキューピーこと大西政寛と再会し7月に兄弟盃を交わし舎弟になる
9月、懲役十二年判決(求刑十五年)となり広島刑務所に収監
山村辰雄に保釈金を立て替えてもらい同年12月保釈、拘置所内で大西政寛から
山村組に入ることを薦められていたことから山村組の若衆になった(美能は保釈後
「カツアゲしたものを返してやれ」と求めたところ応じず喧嘩になり
怪我をさせたことから旅に出る。松山、福井、尼崎を経て、昭和24年(1949年)
2月に広島の岡組(岡敏夫組長)にワラジを脱ぎ客分となる
呉で商売がうまく次第に力をつけていった山村辰雄は
阿賀の名門土岡組が目障りに感じるようになる。土岡組の大西政寛を
巧みに引き込んだりして弱体化を図り、土岡組組長土岡博暗殺を企てて
美能を鉄砲玉に仕立てた。昭和24年(1949年)9月27日
美能は土岡博に重傷を負わせたが暗殺に失敗した
山村辰雄はこの不始末に激怒し美能に再出撃を命じたが
土岡博が戻った阿賀は警察でいっぱいになったことから再出撃は困難となり
山村辰雄の指示により体をかわすため美能は土岡組組員(元山村組組員)が
運転する車で阿賀を通過し三原市に向かう。到着する手前でその組員
との意見の不一致から身の危険を感じて車を降り、夜通し歩いて
同年10月18日広島刑務所に収監され呉駅前の事件の懲役十二年の刑に服す
口を割らず1人で罪を被り昭和26年(1951年)2月土岡博襲撃事件判決懲役八年
昭和29年(1954年)7月岐阜刑務所に押送、昭和34年(1959年)3月まで服役した
昭和27年(1952年)サンフランシスコ講和条約発効を記念する恩赦により減刑され
昭和34年(1959年)3月に仮釈放で岐阜刑務所を出所、居住制限のため名古屋を経て
呉に戻り、山村組幹部として力をつける。昭和38年(1963年)3月1日打越会が
山口英弘を絶縁し、翌4月5日山村組が美能幸三を破門
また、その後、同月、打越会会長が山村組幹部との兄弟盃を破棄
山口(英)組が山村組側にまわり、美能組が打越会側にまわることとなり
広島抗争が激化している昭和38年(1963年)7月5日早朝、広島県警察に別件逮捕
仮釈放を取り消され広島刑務所に収監。その後、網走刑務所に押送
この服役中の昭和40年(1965年)に中国新聞報道部記者の今中瓦が執筆し
『文藝春秋』1965年4月号に掲載された「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く
新聞記者魂 "勝利の記録"」という記事を目にした美能は、広島抗争を
含む獄中手記を5年にわたり四百字詰め原稿用紙700枚執筆
昭和45年(1970年)9月に札幌刑務所を出所、波谷守之の説得により
同年10月19日引退声明し堅気となる。
昭和46年(1971年)1月、美能組は二代目組長薮内威佐夫に引き継がれた
(共政会入り)。美能はその後実業家に転身。美能の獄中手記を元に飯干晃一による
連載「仁義なき戦い 広島やくざ流血20年の記録」が週刊サンケイにて昭和47年
(1972年)5月19日より46回にわたり行われ(和田誠によるイラスト
「映画『現代やくざ 人斬り与太』の菅原文太」が表紙の週刊サンケイ昭和47年
(1972年)5月26日号は連載2回目昭和48年(1973年)1月13日に東映映画
『仁義なき戦い』として映画化公開もされ完結篇まで全5作が劇場公開された
飯干の連載終了後、同じく週刊サンケイにて美能が
「極道ひとり旅 続・仁義なき戦い」を連載。
昭和48年(1973年)12月18日、サンケイ新聞社出版局より
自著『極道ひとり旅 続・仁義なき戦い』を出版。
平成22年(2010年)3月17日、死去。83歳。
第一次広島抗争 映画『仁義なき戦い』のモデルとなった(1950年頃)呉市の抗争
第一次広島抗争は広島市の抗争と呉市の抗争に分かれる
本来は別々の抗争であるが、発生時期が共に戦後
間もなく争いが萌芽し呉で勝利した山村組が
広島で勝利した岡組を吸収する形でその後の
第二広島次抗争へと突入していくこととなるので
第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い
呉の抗争は、博徒・土岡組と山村組の抗争である
呉の覇権を狙って新興の山村組が土岡組に挑んでいった
呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず
山村組の内紛もあり、複雑さを増している
広島の抗争は戦後の広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の
勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争い
終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で
1950年に岡組舎弟・打越信夫[3](打越組組長)が
対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で
勢力を伸ばす結果となった。
戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では
岡の勢力が拡大しその中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎
服部武などの勢力が台頭した
また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し
若頭・佐々木哲彦、若衆・美能幸三らが台頭していた
岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて
岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく
山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に
兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった
この打越の縁組は、後に、いわゆる「仁義なき戦い」
へと導く一つの要因となった
本来は別々の抗争であるが、発生時期が共に戦後
間もなく争いが萌芽し呉で勝利した山村組が
広島で勝利した岡組を吸収する形でその後の
第二広島次抗争へと突入していくこととなるので
第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い
呉の抗争は、博徒・土岡組と山村組の抗争である
呉の覇権を狙って新興の山村組が土岡組に挑んでいった
呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず
山村組の内紛もあり、複雑さを増している
広島の抗争は戦後の広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の
勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争い
終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で
1950年に岡組舎弟・打越信夫[3](打越組組長)が
対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で
勢力を伸ばす結果となった。
戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では
岡の勢力が拡大しその中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎
服部武などの勢力が台頭した
また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し
若頭・佐々木哲彦、若衆・美能幸三らが台頭していた
岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて
岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく
山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に
兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった
この打越の縁組は、後に、いわゆる「仁義なき戦い」
へと導く一つの要因となった
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