google.com, pub-1751028613932834, DIRECT, f08c47fec0942fa0 —— 実録映画『仁義なき戦い』名言・名セリフ 「広島極道はイモかもしれんが旅の風下にたったこたぁいっぺんもないんでぇ。」

中国地方最大の抗争 警察の介入と抗争終結





1963年9月、堪り兼ねた広島県警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した
1965年6月9日、山村は引退を声明し、県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた
同年10月には二代目会長に服部武が就任。理事長には八月に出所した山田久が就いた
打越会との手打ちが成立するのは二年後の1967年8月25日である
海生逸一の斡旋によるもので、翌26日、打越信夫は弁護士と伴に広島西警察署を訪れ
打越会を解散し堅気になることを誓った

こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し
中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。山口組は実害が無かった
(被害は全て打越会に出た)ものの、結果的に広島進出に失敗し
進出の機会が当分閉ざされることとなった






第二次広島抗争 代理戦争 政治結社共政会を結成

亀井貢の密葬後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた
その報復を待たずしてさらに追い討ちを掛けるように1963年5月26日には
打越会を絶縁された山口英弘の若衆が打越会の組員を殴打する事件が起きた
(当時、山口(英)組の縄張りと打越会の縄張りがかぶっていて小競り合いが
続いていた)



直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲
路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した

打越側の報復は、打越信夫が抗争を嫌い雲隠れした事などから上手く組織が機能せず
当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。業を煮やして打越を見限った
山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で1340人の
山口組系組員を広島へ大動員し、山口組の力を見せつけた

しかし広島県警が機動隊など大量動員を掛けて抗争の一方の首謀者である
美能を7月5日に逮捕した、美能を逮捕された山口組は報復を出来ずに
帰らざるを得なかった

1963年9月可部温泉「松福荘」で射殺された打越会系西友会会長
岡友秋の葬儀の席上で

「これはあくまで美能組と山村組との親子喧嘩じゃけえー」
と報復に消極的な打越に対して山本は激怒し
「よう喧嘩も出来んで、なにが山口組の舎弟じゃ!笑わせるな!
自分の喧嘩を買いもせんで人様がなに応援してくれる!
そないに喧嘩したないんやったらわれはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎!」

(打越はタクシー会社を経営していた)と面罵し
山口組と広島のパイプを美能組にシフトした



それでも一向に動こうとしない打越会に業を煮やした西友会は1963年9月19日
山村組本拠キャバレー「パレス」爆破、続いて山村組幹部・原田昭三宅を
ダイナマイトで爆破、さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た
山村組の服部武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し
山口組本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた
(玄関のガラスも割れたが、一階には人がおらずけが人は出なかった)
名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から
山村組の仕業と思われていた
山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し
1964年5月に政治結社共政会(初代会長・山村辰雄)を結成して組織固めを行った






山口組の本格的な介入





打越会と山村組の広島を巡る地域対立は、山口組と本多会という
大組織の代理戦争の様相を呈するようになった
山口組は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった

まず、山村辰雄と懇意にしているということで、打越会若頭の山口英弘
(山口(英)組組長)を絶縁とする一方、安原政雄・松本一美が
美能ら暗殺の噂の真相究明に乗り出した
打越側にそんな動きが無かった(岩本は打越から縁を切られていた)事などから
現山村組幹部で元岡組の網野光三郎、服部武、原田昭三らと打越信夫との
兄弟縁を復縁させた(山村組勢力の取崩しを図った)
山村組内では、呉の顔役である海生逸一が画策した小原光男・美能幸三
山本健一の兄弟盃を不服とし、美能幸三を破門とした
美能は以前から何度も煮え湯を飲まされていた山村との対決姿勢を鮮明にした


このように広島の勢力図が打越会・美能組・西友会の山口組派と反山口組の
山村組派とに分かれる中、1963年4月17日に美能組幹部の亀井貢が山村組系組員に
射殺され戦いの火蓋が切られた

山口組の中国地方進出




1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題が噂される
 最有力候補は打越信夫だが、三羽烏と言われた網野光三郎
服部武、原田昭三や、義弟・永田重義も実力は伯仲していた

そのような折の1961年5月、美空ひばりの広島公演のため
三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)
が広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを
有利に進めようとした打越は、山本と美能幸三の仲介により
山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した

広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡はこの盃を嫌い
1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した
(岡にとって山村は兄貴分にあたり、跡目を格上に譲るのは異例と言えた)
かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し岡組組員百六十人を加えて
総勢二百二十人の大組織となり山陽最大の勢力を持つようになった

当然この事態は打越側に衝撃を与えた
同年6月には打越の舎弟で山口県宇部市の岩本組組長・岩本政治と
山村組幹部樋上実の兄弟分で山口県徳山市の浜部組組長・浜部一郎
との間で抗争が起き、その手打ち仲裁の不手際のため打越は窮地に追い込まれる
さらに、義理事で九州を訪れていた美能らは打越が刺客(岩本組)
を差し向けたとの噂を耳にする。

打越はこれを否定するが、ついには指を詰めさせられ、美能幸三、網野光三郎
原田昭三らとの兄弟盃も解消させられた。
打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した

当時は山口組側にも思惑があった
1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り
山陰においては1961年に本多会の松山芳太郎を殺害し
鳥取に進出。翌年には その鳥取に進出していた直参の
小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし山陰進出を着々と進めていた
山陽においては山口組若頭・地道行雄(地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる
現金屋の内紛に介入して熊本親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を
支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった

このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた
山口組にとって山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった
そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した
再三神戸に足を運び、ついに打越は、1962年9月に田岡の61番目の舎弟となり
打越組が山口組の配下に入り、「三代目山口組広島支部打越会」
と改称することになった

打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は
神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした