google.com, pub-1751028613932834, DIRECT, f08c47fec0942fa0 —— 実録映画『仁義なき戦い』名言・名セリフ 「広島極道はイモかもしれんが旅の風下にたったこたぁいっぺんもないんでぇ。」

『仁義なき戦い 広島死闘篇』 広田雅将】時計は名画の試金石ではあるまいか? ── みんなで語ろう!「わが日本映画」

海外映画に同じく、時計を富と成功の象徴とした日本映画もある。いくつかのピカレスク映画は明らかにそうで、もっとも効果的だったのはヤクザ映画の『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)だろう。舞台となったのは、戦後すぐの呉。大友組の組員たちにリンチを受けた北大路欣也演じる山中正治は、敵対する村岡組の組長に救ってもらい、以降彼に忠誠を誓うようになる。しかし、純真な山中はやがて村岡に利用されるようになり、最後は裏切られて拳銃で自殺してしまう。 この映画の大きな鍵が、スイス製の何十万もする金無垢の腕時計である。リンチを受けた際、山中は腕時計を壊されてしまう。そこで彼を助けた村岡組長は、腕に巻いたスイス製の金時計を外し、男になれよという言葉とともに山中に贈る。女と金時計で村岡に籠絡された山中は、その後、村岡組の「鉄砲玉」として、敵対する相手を殺戮するようになる。この映画の中で、時計は勤勉な小市民のシンボルではなく、成功の証であり、人を狂わせる存在として現れる。時計がこういう描かれ方をしたのは、筆者が観た日本映画の限りでは初であり、他国と比べてもかなり早かったのではないか。つまり『仁義なき戦い』とは、それぐらいに「らしからぬ」日本映画だったのではないか。 正直、主人公がどういう時計を着けようが着けまいが、映画の出来とは関係ない。しかし、時計という小道具は、効果的に使えば、驚くほどの深みを与えることができるのも事実なのである。時計を通じて、主人公と社会の絆を暗示する『男はつらいよ』、そして欧米映画のように、時計を成功と富の象徴として描いた『仁義なき戦い 広島死闘篇』。ひとりの時計好きとして、今後、この2作を超える、ユニークな時計の見せ方を伴った、新しい日本映画を期待したい。

たけし 逮捕された河井夫妻の騒動は“仁義なき戦い”「みんな悪そう。深作さんの映画見ているみたい」

お笑いタレントのビートたけし(73)が20日放送のTBS「新・情報7DAYS ニュースキャスター」(土曜後10・00)で、公選法違反(買収)の疑いで前法相で衆院議員の河井克行容疑者(57)=広島3区=と妻で参院議員の案里容疑者(46)が逮捕された件について、「みんな悪そうだな。すごいな。深作さんの映画見ているみたいだね」と、『仁義なき戦い』シリーズなどの監督として知られる深作欣二さんの作品のようだと苦笑いした。
 番組では、河井克行容疑者と妻の案里容疑者の一連の件を報道。昨年7月の参院選広島選挙区を巡り、地元県議らに票の取りまとめなどを依頼し現金を配ったとされており、参院選の案里容疑者の選挙活動は、克行容疑者が実質的に取り仕切った。擁立は首相官邸の主導だったとされ、党本部は安倍首相と不仲説のあった自民党現職・溝手顕正氏側の10倍にあたる1億5000万円の資金を夫妻側に提供。安倍首相の秘書らも選挙支援に回った。

 たけしは、1億5000万円の資金が、政党交付金から回った可能性もあることについて言及。「だいたい、政党交付金って税金だろ?あれをまた配ったんでしょ?伝統芸でいいんじゃない。伝統的な。いまだに形を崩さない、とか。頑固でいいね、日本は」と、皮肉を込めて語った。

美能幸三 『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物





大正15年(1926年)7月31日、広島県呉市に生まれる
父親は退役軍人で海軍工場に勤め、母親は小学校の教員だった
呉第二中学校2年で退学し、毎日ぶらぶらとしていたが
昭和17年(1942年)に大日本帝国海軍に志願し大竹海兵団に入団
ラバウル、硫黄島を転戦しトラック島で終戦を迎え
浦賀に上陸し昭和20年(1945年)11月26日、復員 

呉に帰郷後は遊び人に身を投じ、昭和22年(1947年)5月末
呉市朝日町の遊郭で山村組組員と旅のヤクザが喧嘩になったことが発端となり
美能は友人に日本刀で怪我をさせた旅のヤクザを呉駅前で射殺、翌日に逮捕
3日目に山村辰雄と谷岡千代松(山村組顧問格)が面会に訪れて美能が口を割らず
1人で罪を被ったことを褒め、山村組の若衆にならないかと誘われる。吉浦拘置所で
悪魔のキューピーこと大西政寛と再会し7月に兄弟盃を交わし舎弟になる
9月、懲役十二年判決(求刑十五年)となり広島刑務所に収監

山村辰雄に保釈金を立て替えてもらい同年12月保釈、拘置所内で大西政寛から
山村組に入ることを薦められていたことから山村組の若衆になった(美能は保釈後
知人に借金して保釈金を山村辰雄に返済)。このときの若頭は佐々木哲彦である



昭和23年(1948年)1月、佐々木哲彦の妻からカツアゲしたチンピラに
「カツアゲしたものを返してやれ」と求めたところ応じず喧嘩になり
怪我をさせたことから旅に出る。松山、福井、尼崎を経て、昭和24年(1949年)
2月に広島の岡組(岡敏夫組長)にワラジを脱ぎ客分となる 

呉で商売がうまく次第に力をつけていった山村辰雄は
阿賀の名門土岡組が目障りに感じるようになる。土岡組の大西政寛を
巧みに引き込んだりして弱体化を図り、土岡組組長土岡博暗殺を企てて
美能を鉄砲玉に仕立てた。昭和24年(1949年)9月27日
美能は土岡博に重傷を負わせたが暗殺に失敗した

山村辰雄はこの不始末に激怒し美能に再出撃を命じたが
土岡博が戻った阿賀は警察でいっぱいになったことから再出撃は困難となり
山村辰雄の指示により体をかわすため美能は土岡組組員(元山村組組員)が
運転する車で阿賀を通過し三原市に向かう。到着する手前でその組員
との意見の不一致から身の危険を感じて車を降り、夜通し歩いて
尾道に辿り着き大西政寛に連絡をとった

同年10月11日に清岡吉五郎に付き添われ広島東署に自首し
同年10月18日広島刑務所に収監され呉駅前の事件の懲役十二年の刑に服す
口を割らず1人で罪を被り昭和26年(1951年)2月土岡博襲撃事件判決懲役八年
昭和29年(1954年)7月岐阜刑務所に押送、昭和34年(1959年)3月まで服役した 

昭和27年(1952年)サンフランシスコ講和条約発効を記念する恩赦により減刑され
昭和34年(1959年)3月に仮釈放で岐阜刑務所を出所、居住制限のため名古屋を経て
呉に戻り、山村組幹部として力をつける。昭和38年(1963年)3月1日打越会が
山口英弘を絶縁し、翌4月5日山村組が美能幸三を破門
また、その後、同月、打越会会長が山村組幹部との兄弟盃を破棄
山口(英)組が山村組側にまわり、美能組が打越会側にまわることとなり
広島抗争が激化している昭和38年(1963年)7月5日早朝、広島県警察に別件逮捕
仮釈放を取り消され広島刑務所に収監。その後、網走刑務所に押送

この服役中の昭和40年(1965年)に中国新聞報道部記者の今中瓦が執筆し
『文藝春秋』1965年4月号に掲載された「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く
新聞記者魂 "勝利の記録"」という記事を目にした美能は、広島抗争を
含む獄中手記を5年にわたり四百字詰め原稿用紙700枚執筆
この獄中手記は出所後に飯干晃一の元に渡る


昭和45年(1970年)9月に札幌刑務所を出所、波谷守之の説得により
同年10月19日引退声明し堅気となる。
昭和46年(1971年)1月、美能組は二代目組長薮内威佐夫に引き継がれた
(共政会入り)。美能はその後実業家に転身。美能の獄中手記を元に飯干晃一による
連載「仁義なき戦い 広島やくざ流血20年の記録」が週刊サンケイにて昭和47年
(1972年)5月19日より46回にわたり行われ(和田誠によるイラスト
「映画『現代やくざ 人斬り与太』の菅原文太」が表紙の週刊サンケイ昭和47年
(1972年)5月26日号は連載2回目昭和48年(1973年)1月13日に東映映画
『仁義なき戦い』として映画化公開もされ完結篇まで全5作が劇場公開された

飯干の連載終了後、同じく週刊サンケイにて美能が
「極道ひとり旅 続・仁義なき戦い」を連載。
昭和48年(1973年)12月18日、サンケイ新聞社出版局より
自著『極道ひとり旅 続・仁義なき戦い』を出版。 

平成22年(2010年)3月17日、死去。83歳。




第三次広島抗争 共政会・浅野組VS十一会梶山一派・侠道会





第三次抗争は山村組が中心となって旗揚げした
連合組織である政治結社「共政会」の内紛が発端である。

初代会長・山村辰雄が昭和40年6月に引退
11月に出所して来た理事長・服部武が二代目を襲名する
服部二代目体制に反発したのが幹事長の山口英弘で
彼は引退を表明する。山口(英)組は同会を脱退し
十一会と名称を改めた。

服部は理事長に子飼いの山田久を任命、副会長に旧岡組の原田昭三を加え
「旧岡組・山村組」派閥の発言権を強めた。これに反発したのが
かつて岡組と敵対した同会顧問の村上正明だった

三代目を視野に入れた山田が連合組織から会長を頂点に一本化へと
組織改革を推し進めようとするが、村上は小原組幹部・宮岡輝雄と連携するのである



そして、昭和44年10月 村上組組員が山田との談判中に突如発砲
山田の配下が報復として宮岡輝雄を射殺する
宮岡組は親分が殺されたのは村上のせいであるとして
村上組との共闘を解消、その後村上組幹部が山田を支援したため、村上正明は失墜する

昭和45年9月 美能幸三が出所する。同年6月に樋上組組長・樋上実が
美能組組員に路上で射殺されていたため、彼の出所は新たな火種になると思われたが
兄弟分・波谷守之の懸命な説得により美能は引退を決意した。二代目美能組組長
さらに三代目小原組が共政会入りし、脱退していた十一会会長・竹野博士が山田から
盃をもらう。こうして三代目山田体制は既定路線となって行った

これに反対する十一会副会長・梶山慧は、共政会三代目襲名式6日前の昭和44年11月18日
大阪へ挨拶回り出向いていた山田久一行の乗った乗用車を、梶山派が襲撃した
山田は胸部に重傷を負った、襲名式は無理と思われたが、医師立会いのもとで
式を強行し三代目の座に就いた

山田久襲撃に使われた車が尾道・侠道会のものだった事から侠道会の関与が疑われた
侠道会はこれを否定したが、会長・森田幸吉は梶山の親分の山口英弘と兄弟分であり
その義理から梶山一派を支援した。一方、山田久三代目の後見人を務めていた笠岡の
浅野眞一組長は三代目共政会を支援する

こうして、共政会内紛に端を発した抗争は共政会・浅野組VS十一会梶山一派・侠道会
となって山陽道を揺るがすことになる。泥沼化し、終わりなき抗争とも思われたが
ここでも波谷守之が動き、森田の叔父貴分にあたる清水春日と説得にあたって
昭和45年5月に和解を見た