google.com, pub-1751028613932834, DIRECT, f08c47fec0942fa0 —— 実録映画『仁義なき戦い』名言・名セリフ 「広島極道はイモかもしれんが旅の風下にたったこたぁいっぺんもないんでぇ。」

第一次広島抗争 映画『仁義なき戦い』のモデルとなった(1950年頃)呉市の抗争

第一次広島抗争は広島市の抗争と呉市の抗争に分かれる

本来は別々の抗争であるが、発生時期が共に戦後
間もなく争いが萌芽し呉で勝利した山村組が
広島で勝利した岡組を吸収する形でその後の
第二広島次抗争へと突入していくこととなるので
第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い

呉の抗争は、博徒・土岡組と山村組の抗争である
呉の覇権を狙って新興の山村組が土岡組に挑んでいった
呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず
山村組の内紛もあり、複雑さを増している





広島の抗争は戦後の広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の
勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争い
終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で
1950年に岡組舎弟・打越信夫[3](打越組組長)が
対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で
勢力を伸ばす結果となった。

戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では
岡の勢力が拡大しその中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎
服部武などの勢力が台頭した

また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し
若頭・佐々木哲彦、若衆・美能幸三らが台頭していた
岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて
岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく
山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に
兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった
この打越の縁組は、後に、いわゆる「仁義なき戦い」
へと導く一つの要因となった


ある勇気の記録 1966ー67年にかけて放送された広島の中国新聞の取り組んだ暴力団追放キャンペーン



原作はノンフィクション作品
『ある勇気の記録 -凶器の下の取材ノート-』
1963年から1967年まで、広島市周辺で起こっていた
第二次広島抗争時に中国新聞社が「暴力追放キャンペーン」
と銘打ち、1963年から1965年まで広島市と呉市を中心に
取材・報道活動を行い、そのペンの力で暴力団に敢然と
立ち向かった成果を出版したもので、1965年(昭和40年)
の第13回菊池寛賞を受賞した撮影は実際に広島県で行なわれ
セミドキュメンタリー作品として制作された



番組の冒頭で「この一篇を 暴力と斗(たたか)い
暴力に勝った 広島市民にささげる」
というテロップが登場していた。


「仁義なき戦い」 名言・名セリフ 頂上作戦 「広島極道は芋かもしれんが旅の風下に立ったこたぁいっぺんもないんでぇ」



広島ヤクザの意地とプライドが炸裂した名シーン
日本最大のヤクザ組織を相手に小林旭が放ったセリフ

「広島極道は芋かもしれんが、旅の風下にたったことは
 いっぺんもないんでぇ、神戸のもんいうたら猫一匹
 通さんけえ、オドレらようおぼえとけや」


広島抗争の中心人物 美能幸三(広能昌三) 菅原文太のセリフ

<美能 幸三は、日本の元ヤクザ、実業家。広島県呉市の美能組初代組長
広島県呉市出身。広島抗争の中心人物の一人であり、後にそのいきさつを描いた
『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物である






・なんよう、ワシガやっちゃろうか?あんたら、やってもみんと
 人に頼んだら、アンタらがハジかこうが・・

・馬のションベンいうんなら、ホンマの馬のションベン飲ましちゃろうか

・じゃが、わしゃあ山守のオヤジから、こんなをヤレ~いわれて来とるんじゃ

・盃は返しますけえ、今日以後わしを山守組のもんと思わんでつかいや

・サツにチンコロしたんはオドレらか!

・オドレの胸に聞いてみたらわかろうが・・

・狙われるもんより狙うもんの方が強いんじゃ
 そがあな考えしとるとスキができるど

・タマはまだ残っとるがよう



・知らん仏より、知ってる鬼のほうがましじゃけえのお

・広島の喧嘩いうたらトルかトラれるかの二つしかありゃぁせんので

・わしゃ、呉でおさまっとりゃ、ええんじゃ

・山守にも火傷させたれえや

・今の時代は、相手をとりさえすれば勝てる時代じゃあないんで
 それさえわかってくれりゃ、ええ

・もうわしらの時代は終いで
 口が肥えてきちょって、こう寒さが堪えるようになってはのぅ

・間尺に合わん仕事したのう

・死んだもんにすまんけえのう