『仁義なき戦い』: 抗争とサングラスの象徴としての小林旭
映画史上屈指の暴れぶり。千葉真一演じるやくざは「暴力の化身」だ!――春日太一の木曜邦画劇場 『仁義なき戦い 広島死闘篇』
九月十三日に『文藝別冊 深作欣二』が河出書房新社から発売になる。ここで筆者は深作監督の仕事関係者、計二十七名にインタビューをした。
その校了日直前に千葉真一のまさかの訃報が届いた。もちろん二十七名の筆頭にそのお名前はあり、五月末にロングインタビューをさせていただいた。その時は、変わらぬエネルギッシュなご様子で、初主演作が監督デビュー作――という縁からの深作監督作品の思い出をたっぷりお話しくださっている。それだけに、あまりに急なことに現実として捉えられずにいた。
生前、本当にお世話になった。取材、テレビ番組、イベント、さまざまな機会でご一緒させていただき、どれほどの御厚情を賜ったか――。子供の頃からのヒーローにうかがえた素晴らしい芸談の数々は我が人生の至宝だ。それだけに亡くなってしばらくは胸をかきむしられるばかりで、追悼コメントなども出せずにいた。
ただ、あれだけパワフルな演技を見せてくれた方。しんみりと振り返るのも違うのではないか。そこで今回は深作とのコンビで生み出された、最高に賑やかな作品を取り上げたい。それは『仁義なき戦い 広島死闘篇』。人気シリーズの二作目だ。
舞台はまだ戦災の爪痕が残る、復興期の広島。千葉が演じるのは、現地最大の組織に牙を剥く武闘派やくざ・大友勝利(かつとし)だ。とにかく、この大友の暴れぶりが凄まじい。
初登場シーンからして、実質的な主人公の山中(北大路欣也)を鋭角に先を切った竹ざおで突くわ叩くわの大リンチ。さらには敵対組織のチンピラ(川谷拓三)を拉致して海に投げ込んで舟でひきずり、ヘロヘロになったところを木に吊るして射撃練習。「あれらはオメコの汁で飯食うとるんど!」というとんでもないセリフも平気で吐く。マスコミ相手の記者会見では堂々と股間をかく。しかも、表情はいつもニコニコ。心から嬉々として暴れているのが伝わり、その様はまさに「暴力の化身」。
しかも千葉の動きも深作のカメラワークもとんでもない激しさで繰り広げられる。そのため、目まぐるしい勢いで展開される大友の暴力の渦に観ていてひたすら巻き込まれていくしかない。その千葉の大暴れぶりたるや、世界の映画史上でも屈指といえる。
生前、新刊が出る度に献本させていただいたのだが、その際に時おり携帯電話に着信があり、ご感想をくださった。たとえ早朝でも、八十歳近い御年齢でも、そのお声の圧は大友そのものだった。次の新刊発売でも、引き続きあのド迫力のお声をお聞かせいただけるのではないか――。今でもまだ、そんな気持ちでいる。
20世紀末くらいまで、『仁義なき戦い』という映画の影響力は、広島の街のイメージを覆いつくすほど大きなものがあったような気がします。
この街に住み始めた頃、知人に「大丈夫か?」とよく訊かれました。
私もしばらくの間は、生活の中で根拠もない緊張感が抜けませんでした。また、東京在住の頃、電車の中で広島弁で話をしていると、自然と周りの人たちがスペースを空けるということもありました。
20世紀末くらいまで、『仁義なき戦い』という映画の影響力は、広島の街のイメージを覆いつくすほど大きなものがあったような気がします。
しかし、実際に住んでみると、全然そんなことはなく、とても美しく”深味のある”魅力溢れる街なのですが、それでも魚の小骨のように心の奥にずっと引っかかっていたものがありました。
この本は、それを(完全にではないですが)抜き取ってくれるような本です。
【寝ごと雑談】
①古今東西、暴力を無法に振るう人間は絶えないでしょう。
でも、他人を殺めるというとこまで行くというのは、どういうことなのか。
そして、なぜ広島がその象徴的な”暴力の街”となっていたのか。
”平和の街”であるはずなのに。。。
それが、抜けない小骨でした。
②ドストエフスキーやチャップリンの、「人を一人殺せば犯罪だが、戦場で数千人殺せば英雄になる」旨の有名なセリフ。
著者が(映画の)主人公に聞きたかったのは、”犯罪”の話ではなく”戦争”の話で、”忠君愛国”と教育され、敵と命のやり取りをしてきた世代の人々にとっては、真面目な人ほど戦後もそれは特別ではなくやってしまう可能性がある。
でも、それはある意味、そんな環境に置かれたら、誰しもが犯してしまうことなのかもしれません。
③映画は、広島への原爆投下のシーンで始まります。
今までシリーズを何度か見たのに、そこに、直接 ”戦争”(ある意味、その後遺症)というものを感じ取ることができなかった自分は、一体何を見ていたのだろうと思います。
(戦後世代にとっては、”戦争”は歴史であり、”暴力”は現在進行形なので、直感としてそこを結びつけるのが難しいのかもしれません。)
広島(呉も含めて)は、”軍都”であり、”被爆地・戦災地”であり、”暴力の街”であり、”平和の街”であるというのは、是非ではなくこの街の”流れ”でだった。
でも、それは広島に限らず日本全体がその”流れ”の中にあって、それが際立ったのが広島だった、ということでしょうか。
そして、その先に、”深味を帯びた”今の広島の街がある、のかもしれません。